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【事件名】被爆写真、著作権確認事件
【年月日】平成9年6月27日
 広島地裁 平成6年(ワ)第1362号 著作権確認等請求事件

判決文
 平成9年6月27日判決言渡 同日原本交付 裁判所書記官 西岡貴江
 平成6年(ワ)第1362号 著作権確認等請求事件

判決
横浜市(以下住所略)
 原告 宍戸幸輔
右訴訟代理人弁護士 高村是懿
右訴訟復代理人弁護士 山田慶昭
広島市(以下住所略)
 被告 松重美人
右訴訟代理人弁護士 古田隆規
同 武井康年
同 小田清和


主文
1 原告の請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由
第1 請求
一 原告が、別紙1及び2の各写真について、著作権を有することを確認する。
二 被告は、原告に対し、金1万円を支払え。
三 被告は、原告に対し、別紙1及び2の各写真のオリジナル・ネガフィルムを引き渡せ。
第2 事案の概要
一 本件は、原告が、原子爆弾による被爆直後の広島市内の状況を撮影した写真2枚について、これを原告が撮影したものであると主張し、右各写真を撮影したのは被告であると主張する被告に対し、著作権を有することの確認を求めるとともに、いわゆる著作人格権の侵害による慰謝料1万円の支払いを求め、併せて、所有権に基づき、右各写真のオリジナル・ネガフィルムの引き渡しを求める事案である。
二 争いのない事実
1 別紙1の写真(以下「本件写真(一)」という。)及び同2の写真(以下「本件写真(二)」という。)(なお、以下、本件写真(一)及び(二)を合わせて「本件各写真」という。)は、いずれも昭和20年8月6日の原子爆弾による被爆直後の広島市内御幸橋西詰付近の状況を撮影したものであるが、本件各写真のネガフィルム(60ミリメートル×60ミリメートルのフィルムを現像したもの。なお、オリジナル・ネガフィルムであるか否かについては争いがある。)は、本件各写真に対応する部分ごとに切り離された状態で、被告の依頼により中国新聞社において保管されており、被告は、本件各写真は自らこれを撮影したものであって、本件ネガフィルムはそのオリジナル・ネガフィルムであると主張し、原告が本件各写真を撮影したことを争っている(以下、本件写真(一)に対応するネガフィルムを「本件ネガフィルム(一)」、本件写真(二)に対応するネガフィルムを「本件ネガフィルム(二)」といい、本件ネガフィルム(一)及び(二)を合わせて「本件各ネガフィルム」という。)。
2 なお、本件各ネガフィルムのほか、これと同一のサイズのネガフィルムで、理髪店を営んでいた被告方の被爆直後の室内が撮影されたもの(別紙3の1の写真(以下「件外写真(一)」という。)のネガフィルム。以下「件外ネガフィルム(一)」という。)、被告方の室内から窓越しに被爆直後の屋外が撮影されたもの(別紙3の2の写真(以下「件外写真(二)」という。)のネガフィルム。以下「件外ネガフィルム(二)」という。)及び机の前に座って書類を書いている警察官が撮影されたもの(別紙3の3の写真(以下「件外写真(三)」という。)のネガフィルム。以下「件外ネガフィルム(三)」という。)が、それぞれ切り離された状態で、被告の依頼により、本件各ネガフィルムとともに中国新聞社において保管されている。
三 争点
 本件各写真を撮影したのが原告であるか否か、また、本件名ネガフィルムがオリジナル・ネガフィルムであるか否かが主たる争点であり、この点についての原告及び被告の各主張は、次のとおりである。
1 原告の主張
 以下のとおり、本件各写真を撮影したのは原告である。
(一)原告は、昭和20年8月6日、広島市が原子爆弾により被爆した当時、中国軍管区司令部参謀部部付総動員班長(陸軍大尉)の地位にあって、広島市千田町3丁目(当時の住居表示。以下、特に注記しない限り、住居表示は昭和20年当時のものによる。)所在の吉村喜作方に寄宿しており、同日午前8時15分ころ、右吉村方にいたところに原子爆弾が投下された。
(二)原告は、将校としての使命感に駆られ、被爆者の救護に当たるべく、広島市内の御幸橋西詰の巡査派出所に応急救護所を設置し、現場の総指揮官として、たまたま同所付近を次々に通りかかった軍の将兵約150名から160名を強引に徴用し、多数の被爆者を市内宇品の陸軍船舶司令部の救護施設にトラックでピストン輸送するなどの救護活動を展開した。その際、後日に軍において右将兵の徴用が救護活動のためのやむを得ないものであったことを弁明するための資料として写真撮影を思い立ち、同日正午ころ、当時所有していたカメラ(コダック・レチナ。35ミリメートルフィルム用で、アイモ用の約20枚分の35ミリメートルロールフィルムが装填されていた。)を使用して、右救護活動の状況の写真12枚を撮影したものであって、本件各写真は、右12枚の写真の一部である。
(三)昭和20年8月中旬ころ、原告は、右各写真に係るフィルムの現像を、当時中国軍管区司令部のテント内にいた写真報国隊隊員亀田某に依頼し、右フィルムを手渡したが、そのまま行方が分からなくなった。ところが、原告は、同年12月末ころ、広島駅前のいわゆる闇市で、本件各写真が土産品として販売されているのを発見し、何らかの経路で原告が撮影したフィルムによる写真が闇市に流れたものと確信していたところ、昭和47年に広島市の被爆当時の状況等を記述した著書を出版するに際し、右各写真を掲載することを思いつき、新聞社であれば闇市に流れていた原告撮影の写真を入手しているのではないかと考えて毎日新聞杜に赴いたところ、たまたま、同新聞杜が本件写真(一)を入手していたことが判明し、これを借り出して右著書に掲載した。すると、被告から、本件写真(一)の撮影者は被告である旨の抗議を受け、被告が、本件各写真を撮影したと称して、本件ネガフィルムを保管していることを知った。
2 被告の主張
 右1の本件各写真を撮影したのが原告であるとの主張は否認する。以下のとおり、本件各写真を撮影したのは被告である。
(一)被告は、昭和20年8月6日当時、中国新聞社の写真部員であり、中国軍管区司令部に所属する報道班員でもあったが、爆心地から約2・7キロメートル離れた広島市内の翠町の自宅にいたところ、原子爆弾により被爆した。被告は、被爆の約30分ないし40分後に、当時所有していたカメラ(マミヤシックス。60ミリメートル×60ミリメートルのフイルム用で、12枚撮りフィルムが装填されていた。)を携え、中国新聞社又は中国軍管区司令部に赴くために自宅を出て歩いていた途中、御幸橋西詰において多数の被災者の惨状を目撃し、午前11時ころ、その状況を2枚撮影した。これらが、本件各写真であり、そのオリジナル・ネガフィルムが本件各ネガフィルムである。
(二)被告は、本件各写真を撮影した後、さらに、同一のカメラにより、同日午後2時ころ、自宅において、件外写真(一)及び(二)を撮影し、午後5時半ころ、広島市皆実3丁目において、件外写真(三)を撮影したが、これら各写真のオリジナル・ネガフィルムが件外ネガフィルム(一)ないし(三)である。
第3 争点に対する判断
一 原告の行動等について
証拠(甲1,2,8,9,11,15,22,25ないし30、34ないし37、乙3の1及び2、原告本人、被告本人)及び前記第2の二の事実に弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認定することができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
1 原告(大正3年11月6日生)は、昭和13年8月、陸軍騎兵少尉として応召し、昭和17年1月から、第2次世界大戦における日本軍のマライ作戦に第5師団司令部情報将校として従軍し、昭和20年8月6日当時は、広島市内に置かれた中国軍管区司令部に所属し、同司令部参謀部部付陸軍大尉(総動員班長)の地位にあり、広島市千田町3丁目818番地所在の吉村喜作方に寄宿していた。
2 昭和20年8月6日午前8時15分ころ、広島市に原子爆弾が投下されたが、その時、原告は右吉村方において就寝中であった。原告は、被爆により覚醒し、吉村方を出てみると、付近の建物はみな破壊され、多数の負傷者が発生している惨状を目にしたことから、負傷者の救護に当たることを決意し、吉村方付近の職業安定所の建物に負傷者を搬入し始め、参集してきた協力者らとともに、救護活動を開始した。しかし、負傷者の数は余りに多く、原告は、広島市南部の宇品にあった大本営船舶司令部(通称暁部隊)が被爆の被害を免れたと推測し、暁部隊による救援を期待して、救護活動の拠点を、吉村方から約300メートル宇品寄り(東寄り)の御幸橋西詰の道路南側にあった警察官の派出所に移動し、救護活動を継続した。そうするうち、宇品方面から御幸橋を渡って市内中心部に向かう暁部隊の隊員約25名がやって来たので、原告は、指揮官を強引に説得し、右隊員らを救護活動に協力させ、また、通りかかるトラックを次々に徴用して負傷者を前記船舶司令部の救護施設まで搬送するのに協力させるなど、同日午後2時過ぎころに正式の救護隊として派遣された暁部隊が到着するまで、救護活動の事実上の指揮を執った。
3 原告は、右の御幸橋西詰における救護活動の途中、軍律上、暁部隊を強引に救護活動に従事させたことがやむを得なかったことの証拠を残しておく必要性を感じ、救護活動の状況を写真撮影しておくことを思い立ち、同日午前11時過きころ、いったん吉村方に帰り、当時所持していたカメラ(コダック・レチナ、35ミリメートルフイルム用。高さ約7センチメートル、幅約12センチメートル、レンズを格納した状態の奥行き約3センチメートル)を取って来て、同日午前11時30分から正午ごろ、右カメラにより、御幸橋西詰における救護活動の状況を撮影した。なお、原告は、右撮影に当たっては、人目につくことを嫌い、戦闘帽でカメラを覆ってレンズのみを出し、ファインダーを覗くことなく、ほぼ連続して12回シャッターを切った。
4 原告は、同月9日ころ、中国軍管区司令部に設けられていた仮設テントにおいて、車への協力組織として民間の写真家や写真業者により組織されていた写真報国隊の一員に対し、右撮影にかかるロールフィルムを手渡し、現像を依頼したが、その後、右依頼をした人物の消息が不明となり、右ロールフィルムの行方も分からなくなった。
5 その後、原告は、昭和47年8月、被爆直後の広島市の状況や原告による救護活動等を記述した「広島が滅んだ日」と題する著書(以下「本件著書」という。)を読売新聞社から出版したが、これに本件写真(一)を、自らが撮影したものとして掲載した。
6 被告(大正2年1月2日生)は、昭和16年に芸備日日新聞に入社し、昭和18年2月に同新聞が中国新聞杜に統合されてからは、編集局写真部に所属するカメラマンとして勤務しており、昭和20年8月6日当時、御幸橋東詰の南東の広島市翠町1551番地に居住し、軍司令部の報道部員としての仕事にも携わっていたが、中国新聞社発行の昭和21年7月6日付け「夕刊ひろしま」に、本件各写真が、被告が撮影したものとして掲載され、その後も、本件各写真は、被告が撮影した写真として雑誌や書籍等に広く掲載されるようになった。
7 ところが、前記5のとおり、本件著書に、本件写真(一)が原告が撮影したものとして掲載されたことから、被告は、その出版直後、原告に対して抗議を申し入れ、その後、原告と被告との間において、中国新聞社の関係者等を交えて話し合いが持たれたが、本件各写真の撮影者が誰であるかについての決着はつかず、原告の側から本件訴訟が提起されるに至った。
二 右事実関係を基に、原告が本件各写真を撮影したものであるかについて判断する。
1 本件各写真の撮影者は原告であるとの原告の主張(前記第2の三1)に対し、被告は、その所有していたカメラ(マミヤシックス、60ミリメートル×60ミリメートルのフィルム用)を使用して本件各写真を撮影したものであると主張し、本人尋問において、自宅で被爆してから、市内中心部の軍司令部ないし中国新聞社の社屋に赴くべく、カメラを首に掛けて携え外出したが、火災に阻まれて到達できず、その途上、午前11時ころに、御幸橋西詰において本件各写真を撮影した旨を供述するほか、本件各写真の撮影後、自宅において、室内の状況及び窓越しの外の倒壊した消防署の状況を撮影し(件外写真(一)及び(二))、さらに、同日午後5時半ころ、広島市皆実3丁目において、罹災証明書を書いている警察官を撮影し(件外写真(三))、同日夜には、広島市千田町の火災の状況を撮影し、昭和20年8月15日前後に、そのフィルムを、当時の中国新聞杜の疎開先で現像し、以後、感光していなかった右火災に係るネガフィルムを除き、本件名ネガフィルム及び件外ネガフィルム(一)ないし(三)を保管している旨供述している。
2 そこで、まず、原告の主張及び供述自体についてみるに、原告が指揮して行った救護活動に関する供述内容は具体的かつ詳細であって、供述態度等を併せ考慮すれば、原告は、その記憶に忠実に従って供述をしていることが認められ、前掲各関係証拠と原告の右供述とを総合すれば、前記一認定のとおり、被爆当日、原告が指揮して救護活動を行い、しかも、その最中に原告が所有していたカメラ(コダック・レチナ)によって、救護活動の状況を撮影したことは、優にこれを認定することができる。
 しかしながら、本件各写真が、原告の撮影したネガフィルムによるものであるか否か、すなわち、原告の撮影したネガフィルムと本件各写真のネガフィルムとの同一性についての証拠は、もっぱら原告の記憶に基づく供述のみであって、客観的証拠は存在しないところ、原告は、救護活動の撮影の際には、人目を憚って、戦闘帽でカメラを覆ってレンズのみを出し、ファインダーを覗くことなく撮影を行ったものである上、実際に撮影されたフィルムを現像した結果を見たことはなく、右フイルムに現実にどのような画像が撮影されていたかは確認されないままになっていることを考慮すれば、原告が如何に記憶に忠実に供述しているといっても、供述の基をなす記憶自体が、原告の撮影したネガフィルムと本件各写真のネガフィルムとの同一性について、十全の信頼性を有するとまで評価することには躊躇を覚えざるを得ず、原告の右供述は、右同一性を証明する証拠としては薄弱な面があるとの評価を免れないものである。
3 他方、原告の主張によれば、被告が保管している60ミリメートル×60ミリメートルの本件各ネガフィルムは、原告が撮影した35ミリメートルのオリジナル・ネガフィルムの複製であることとなる。
 そこで、検討するに、まず、鑑定においては、本件各ネガフィルムは、オリジナルである可能性が高いとの見解が得られており、右見解は,画面のコントラスト(白黒のめりはり)及びシャープネス(鮮明さ)の観察に基づくものであって、原告の指摘するとおり、主観的ないし感覚的な要素の強い判断ではあるが、写真に関する専門的経験を有する鑑定人の観察に基づくものであるから、傾聴に値するものと評価することができる。
 また、鑑定においては、右の反面、他のネガフィルムから本件各ネガフィルムを直接に複製することは、これに要する写真フィルムが市販されていないことから不可能に近く、本件各写真のオリジナル・ネガフィルムをプリントし、これを原稿としてカメラで撮影することによってネガフィルムを複製することは理論的には可能であるが、被告が所有していたマミヤシックスによって右の作業を行うとすると、複製の画面において、オリジナル・ネガフィルムが撮影された視点を正確に再現できるように写し取ることは非常に困難であり、技術的にみて不可能に近いとの結論が得られている(なお,件外ネガフィルム(一)ないし(三)は、被告が右カメラにより撮影したものであることは、被告本人尋問の結果によりこれを優に認定することができるが、鑑定及び証人小池恒裕の証言によれば、本件各ネガフィルムは、カメラごとに特徴的な上下の切り欠けの形状や画面枠の四辺の微細な乱れの状況からみて、件外ネガフィルム(一)ないし(三)を撮影したのと同一のカメラ、すなわち被告が所有していたマミヤシックスにより撮影されたものであることが認められる。)(鑑定、証人小池恒裕)。
 さらに、本件各ネガフィルムが複製であるとした場合に、本件各ネガフィルムが有する程度の鮮明さを有する複製を作製するには、オリジナル・ネガフィルムから1メートル四方程度の大きさのプリントを作製することが必要となり、また、35ミリメートルのネガフィルムから本件各ネガフィルムのような60ミリメートル×60ミリメートル複製ネガフィルムを作製すると、画面の形状が異なるために多くの情報量が失われることとなり、このような方法による複製は常識的には考えられない(証人小池恒裕)。
 以上の事情は、これらのみによって本件各ネガフィルムがオリジナル・ネガフィルムであると断定できるまでのものではないが、いずれも本件各ネガフィルムが複製ではない可能性が高いことを示唆するものであって、原告の撮影したネガフィルムと本件各写真のネガフィルムとの同一性を証明する証拠としての原告の供述の証拠価値を減殺するものであるといわざるを得ない。
4 ここで、翻って、被告の供述の信用性について、これに関する原告の主張に沿って検討することとする。
(一)まず、被告は、本件各写真を撮影した際に、御幸橋西詰に約1時間弱の間留まっていた旨供述しているが、この点について、原告は、カメラを取りに吉村方との間を往復している時間帯を除き、終始御幸橋西詰にいたのであるから、原告が被告を確認していないのは不自然であること及び戦時中の厳しい報道管制の下、戦災の状況を撮影すること自体がスパイ行為として処罰されていた時期において、働ける者は皆被災者の救護活動に息つく暇もない状況下にあって、マミヤシックスのような大型のカメラを首に下げた被告が1時間弱もの間立ち尽くしていながら、誰にも見咎められなかったのも不自然である旨主張する。
 しかしながら、被爆当日の午前11時前後は,被災者が御幸橋西詰の派出所に続々と運ばれ、救護活動に当たっていた者は、皆その救護と搬送に奔走していて、御幸橋西詰付近は相当の多人数が行き交う雑然とした状況であったことが推認され、まして、原告は、救護活動の指揮を執っていたのであるから、被災者や救護活動の状況に注意を集中し、いかにこれを効果的に遂行するかに腐心していたことは想像に難くないことを勘案すれば、原告が救護活動に携わっていない被告を見逃すこともあり得る事態であり、また、原告以外の者も、被災状況の凄惨さに気を取られ、あるいは救護活動に手一杯であって、被告の存在を気に止めなかったとしても不思議ではないと考えられるから、右の原告主張の点をもつて、直ちに被告の供述が信用できないとはいえない。
(二)つぎに、本件各写真が初めて公にされたのはアメリカの雑誌であり、その雑誌には撮影者は死亡しているとのコメントが付されていた(甲11)ところ、原告は、右の事実からみて、本件各写真が撮影者不明のまま右雑誌の関係者の手に渡ったことになるが、被告が本人尋問において供述するように、被告が外国の通信社の記者に本件各写真を手渡したとすれば、その際に撮影者が被告であることを明らかにしているはずであり、撮影者不明として右雑誌関係者の手に渡るはずがないから、被告の本件各写真の撮影者が被告であるとの供述は信用できない旨主張する。しかし、そもそも、如何なる経路をたどって本件各写真が右雑誌に掲載されるに至ったのかは判然とせず、前記のようなコメントが付された経緯も明らかでないから、このことが、直ちに被告の右供述の信用性を左右するものではない。
(三)また、原告は、被告の供述が信用できない事情として、本件各写真の撮影時刻について、被告が雑誌等に発表した時刻や被告が供述する時刻がまちまちであることを指摘するところ、右発表に係る時刻には、午前9時半、午前10時半、午前11時半等があることが認められ(甲37)、被告の供述する撮影時刻は午前11時ころである。しかし、この程度の時刻のばらつきは、被爆当時の惨状による精神的衝撃等を考慮すれば、さほど不自然なものとはいえず、また、原告が救護活動の状況を撮影したと認められることは前記一のとおりであるが、原告は、本件写真(一)を撮影したとする時刻について、本件著書の第1刷(昭和47年8月15日付け)では午後3時半ころとし(乙14の1)、その第2刷(昭和47年9月25日付け)では午後4時過きとし(乙14の2)、第5刷(昭和51年8月20日付け)では再び午後3時半こるとしている(乙14の3)一方、本人尋問においては、本件各写真を撮影した時刻は午前11時半から正午までの間であった旨供述しており、原告が当時如何に救護活動に忙殺され、時刻を気に留める余裕がなかったにしても、原告が救護活動の状況を撮影したとする時刻にはなお相当大きな変遷がみられることと対比しても、被告の発表又は供述に係る撮影時刻に前記の程度のばらつきがあることは、あえてこれを黒とするに足りないものである。
(四)さらに、本件写真(二)の中央部に写っている帽子を被り、黒っぽい服を着た男性について、仁科記念財団編纂の「原子爆弾、広島・長崎の写真と記録」と題する書籍には、本件写真(二)が被告撮影のものとして掲載され、その説明として、右の男性が巡査であり、後に須沢巡査部長であると判明した旨記載されている(甲7)が、原告は、服装からみて、右の男性は警察官ではあり得ず、救護活動に当たっていた獣医中尉である旨主張しており、確かに、右の男性は須沢巡査部長ではないと認められる(甲8、原告本人)。しかし、被告は、右書籍中の説明が誤りであることを認めた上、これが被告の説明によるものではない旨供述しており、右書籍中の説明が、被告の誤った説明に基づいて記載されたものであるかは必ずしも明確でなく、右の原告主張の点が被告の供述の信用性を左右するとまではいえない。
(五)以上の点に対し、被告の供述自体をみるに、その内容は、全体として、体験した者でなければ供述し得ないような具体性と迫真性を有しているということができ、本件各写真及び件外写真(一)ないし日を順次撮影していった状況についての供述にもとりたてて不自然とみられる点はない。なお、本件写真(三)について、原告は、被爆当日には罹災証明書は発行されていない旨主張するが、証拠(乙5の1及び2、22)によれば、被爆当日においても罹災証明書が発行されていたことが認められるので、この点において、被告の供述が真実に反するということはできない。右のように、被告の供述の信用性を失わせるべき決定的な事情は見当たらず、その他の点についての原告の主張を考慮しても、なお被告の供述の信用性を否定すべき事情は認め難いというべきである。
5 以上のように、原告の撮影したネガフィルムと本件各写真のネガフィルムとの同一性についての証拠としては、原告の供述があるのみであって、元来それ自体薄弱な面があるのに対し、鑑定における見解等に照らせば、右の点についての原告の供述の証拠価値は減殺されざるを得ず、さらに、右の点について原告の供述と相容れない被告の供述については、これを排斥すべきまでの事情が見当たらないことを考慮すれば、原告は、本件各写真の撮影現場にいて、これらに撮影された状況を目撃し、また、右現場における救護活動の状況を撮影したことによって鮮明に記憶に留まっている状況と、本件各写真に撮影された状況とが同一であるために、本件各写真は原告が撮影したものでないのに、これらを撮影したものであると確信し、この確信に基いて供述しているにすぎないとの疑いを払拭することができない。したがって、原告の供述は、原告の撮影したネガフィルムが本件各写真のネガフィルムであることを証明するに足りないといわざるを得ず、他にこれを認めるに足りる証拠はないのであって、かえって、被告の供述は、これが前記3に判示した鑑定における見解等とも符合することをも考慮すれば、措信するに足りるものであるということができる。
 したがって、原告が撮影したネガフィルムと本件各写真のネガフィルムとの同一性に関する原告の供述の証拠価値を否定せざるを得ないことは、もとより、原告が指揮して行った救護活動の価値や被爆直後の状況を生きて現在に伝え得る者としての原告の体験の報告の貴重さを些かなりとも減ずるものではないが、結論としては、原告が本件各写真を撮影したことの証明はないといわざるを得ない。
第4 結論
 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとする。

広島地方裁判所民事第3部
 裁判官 白井幸夫
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