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【事件名】小林亜星vs服部克久盗作事件 【年月日】平成12年2月18日 東京地裁 平成10年(ワ)第17119号 損害賠償請求事件(甲事件) /平成10年(ワ)第21184号 著作権確認請求反訴事件(反訴事件) /平成10年(ワ)第21285号 損害賠償請求事件(乙事件) (口頭弁論終結日 平成11年11月19日) 判決 甲事件原告兼反訴被告 小林亜星(以下「原告小林」という。) 乙事件原告 有限会社金井音楽出版(以下「原告金井音楽出版」という。) 右代表者代表取締役 原一 右両名訴訟代理人弁護士 山根祥利 同 原山邦章 同 近藤健太 反訴原告兼甲乙事件被告 服部克久(以下「被告」という。) 右訴訟代理人弁護士 神谷信行 同 朝日純一 同 山之内三紀子 主文 一 原告らの請求をいずれも棄却する。 二 被告が、別紙楽譜二記載の楽曲「記念樹」について著作者人格権を有することを確認する。 三 訴訟費用は、原告らの負担とする。 事実及び理由 第一 請求 一 甲事件請求 被告は、原告小林に対し、金一億円及びこれに対する平成一〇年八月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。 二 反訴請求 主文第二項と同旨。 三 乙事件請求 被告は、原告金井音楽出版に対し、金三二一万円及びこれに対する平成一〇年九月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。 第二 事案の概要 本件は、「どこまでも行こう」の作曲者である原告小林及び同曲の著作権者である原告金井音楽出版が、「記念樹」の作曲者である被告に対し、「記念樹」は「どこまでも行こう」を複製したものであると主張して、原告小林において氏名表示権及び同一性保持権侵害による損害賠償を求め(甲事件)、原告金井音楽出版において複製権侵害による損害賠償を求め(乙事件)、他方、被告は、原告小林に対し、「記念樹」は「どこまでも行こう」とは別個の楽曲であると主張して、「記念樹」について著作者人格権を有することの確認を求めている(反訴事件)事案である。 一 争いのない事実等 1 別紙楽譜一記載の楽曲「どこまでも行こう」(以下「甲曲」という。)は、原告小林が、昭和四一年に作曲して、同年、ブリジストンタイヤ株式会社のテレビコマーシャルのための楽曲として公表されたものであり、原告金井音楽出版は甲曲の著作権者である(甲一、二、四、五、二一、二八、甲二九の一、二、弁論の全趣旨)。 2 別紙楽譜二記載の楽曲「記念樹」(以下「乙曲」といい、甲曲及び乙曲をまとめて「本件両曲」という。)は、平成四年に、被告を作曲者として、「『あっぱれさんま大先生』キャンパスソング集」というCDアルバムに収録される形で公表されたものであり、フジテレビ系列局で放送されているテレビ番組「あっぱれさんま大先生」及び「やっぱりさんま大先生」のエンディング・テーマ曲として使用されてきたものであって、子どもたちが卒業式で歌うことを想定した楽曲である(乙六ないし八、弁論の全趣旨)。 3 原告小林は、被告が乙曲の著作者人格権を有することを争っている。 二 争点 1 甲曲と乙曲に同一性があるかどうか (原告らの主張) 楽曲の同一性判断に当たっては、音楽の四要素(旋律、和声、節奏、形式)を考慮に入れるべきであるとしても、ポピュラー音楽においてはメロディー(旋律)を重視すべきである。 (一) メロディーの同一性 ・二楽曲の導入部であるアウフタクト部は二音中二音が同一である。 ・一小節目は五音中最初の一音が同一で、他の四音は同一和声上に共存可能な音をもって置き換えられている。 ・二小節目は三音中三音がともに同一である。 ・三小節目は八音中五音が同一、他の三音は同一和声上に共存可能な音をもって置き換えられている。 ・四小節目は三音中三音がともに同一である。 ・五小節目は六音中六音が同一である。 ・六小節目は六音中五音が同一、残りの一音は経過音として付加されたものである。 ・七小節目は四音中二音が同一である。 ・八小節目は同一音がない。 ・九小節目から一四小節目までは一小節目から六小節目と同一である。 ・一五小節目は四音中二音が同一である。 ・一六小節目は一音中一音が同一で、休符も同一である。 このように、甲曲と乙曲は全体の約七二パーセントが同一音であり、残る音も同一和声上に共存可能な音であり、編曲的手法をもってすれば、甲曲から瞬時に変奏できる程度を超えていない。 以上により、甲曲と乙曲のメロディーには同一性がある。 なお、後記(被告の主張)のとおり、甲曲冒頭の八音中第五音に「導音」が存在するが、被告が主張する乙曲の曲想としての「浮遊感」はアレンジによって生じたもので、メロディーに内在するものではない。乙曲に編曲を施すことにより、導音を用いなくとも同様の感じを醸し出すことが可能である。 (二) 他の要素の同一性 (1) 形式について 甲曲が一部形式であるのに対して、乙曲は二部形式であるようにみえるが、乙曲は厳密には反復二部形式(一部形式の大楽節を繰り返した形式)であり、乙曲は甲曲の一部形式部分を繰り返し記号を用いて反復するか、一部形式部分で用いた旋律を転記することによって、容易に作成することができるから、両曲は同一形式である。 (2) 和声について 甲曲が四種類の和声を持つのに対し、乙曲は表面的には一八種類の和声を有しているが、和声群の観点から両曲を比較すると、導入部五小節目までは全て同一和声であり、六小節目は同一和声及び代理和声と経過和声であって、七小節目及び八小節目は別和声である。九小節目から一四小節目は一小節目から六小節目と同一である。一五小節目及び一六小節目は同一和声である。 したがって、両曲は、全一六小節中一二小節までが同一和声によって構成され、残りの四小節のうち二小節が同一和声と代理和声の混合、二小節が別和声によって構成されていることになる。 しかし、別和声による七小節目及び八小節目は、楽曲を繰り返して始めの主和音に連結するときに用いられる属七の和音を八小節目に配置するための和音進行であるから、音楽的な創意があるとはいえない。 よって、両曲の和声は同一の構造を有している。 (3) 拍子・リズムについて 甲曲が二分の二拍子であるのに対し、乙曲が四分の四拍子であることからすれば、拍子が異なるようにみえるが、二分の二拍子と四分の四拍子は、容易に置き換えが可能な、拍子の中でも最も近い拍子であり、軽音楽においては演奏形式の違いにすぎない。 両曲を同一表記に統一すれば、リズムは約七四パーセントの範囲で同一となり、両曲は酷似したリズム構造をもっている。 音楽学上、拍子とアクセントが結びつけて考えられてきた経緯があるのは事実であるが、一口に四分の四拍子といっても様々なアクセントが存在するのが実態であり、どのアクセントを選択するかは作曲者の判断に委ねられている。甲曲を四分の四拍子で演奏した曲も発表されており、拍子の違いが曲想に決定的な違いをもたらすものではない。 (4) テンポについて テンポの違いは、楽曲の同一性判断においては本質的な要素ではない。 アレンジの目的によりテンポが変わることはよくあることであり、演奏するたびにテンポが異なったとしても不思議ではない。甲曲は様々なテンポで演奏されてきているが、どれを取っても甲曲であることに変わりはない。 したがって、甲曲と乙曲のテンポの違いは問題にならない。 (5) 曲の全体的雰囲気について 歌詞や編曲を変えることによって、曲の全体的雰囲気を変えることが可能である以上、全体的雰囲気の違いが楽曲の違いをもたらすことはない。 (三) 以上のとおり、乙曲は、甲曲と同一性を有する。 (被告の主張) 楽曲の同一性はメロディーの類似性のみをもって決定されるのではなく、曲の全体的雰囲気、形式、和声、拍子、リズム、テンポ等を総合的に考慮して決定されるべきものである。 (一) メロディーの違い 音楽は「時間芸術」であり、一定の時間にどのような音が、どのような長さで、どのようにつながっていくかということが、メロディーの本質を決定するものである。 (1) 甲曲「どこまでもゆこう」の部分 甲曲の冒頭八音(ドレミードシードレドー)は同曲の末尾の八音と同じである。この曲において二度までも同じ音型が使われている事実に照らすと、この八音が甲曲の本質的部分と解される。 この八音において、歌詞「どこまでも」の「ま」の部分及び「ゆこう」の「こ」の部分で、それぞれ「ミー」と「レ」の音が二つの山の頂を形成し、厳しい山道でも頑張って越えてゆこうという甲曲の曲想が表現されている。 これに対し、乙曲の冒頭部分のメロディーは「ドレミーミレードドー」である。この部分は「ミーミ」、「ドドー」と二つずつ同じ音を繰り返し、全体としてなだらかな丘を形成し、やんわりとした浮遊感を与えている。 また、甲曲では冒頭八音の第五音に、主和音の根音(ここでは「ド」)の半音下の音「シ」が使われており、和声学上「導音」と呼ばれるこの音によって次の音が強く連想され、前進的な感じをもたらしているのに対し、乙曲の冒頭部分には導音は使用されておらず、そのために右浮遊感が生まれている。 (2) 甲曲「みちはきびしくとも」の部分 甲曲の「みちはきびしくとも」の部分(ドドファーファファファソラソー)は歌詞の「きびしくとも」の「と」の部分で最も高い頂となる山を形成している。ここは、厳しい山道を頑張って登っている様を「ド」から数えて六度の高さにある「ラ」まで八音かけて上昇させることで表現している。 これに対し、乙曲では、冒頭に続く部分は「ドドファファファファララソ『#ファ』ソー」と細かく八分音符を連ねて「ラ」まで上がった後、半音を使って木の揺らぐ様を表現している。 したがって、この部分のメロディーが聴き手に与える影響は、両曲では本質的に異なる。 (3) 甲曲「くちぶえをふきながら あるいてゆこう」の部分 甲曲では、直前の「みちはきびしくとも」(ドドファーファファファソラソー)を受け、「くちぶえをふきながら」の部分で「ソソラーラソファー」、「ソラソーミドー」というメロディーによって盛り上がりを迎え、一番高い「ラ」の頂点を越えることによって、ひと山越した感じになり、「ドミソ」を逆にした「ソーミドー」というメロディーで、男性的にストレートに山を越し、一息ついたという印象を、聴き手に与えている。その後、冒頭八音と全く同じ音型(ドレミードシードレドー)が登場し、「さあ、また頑張ろう」という感じで始めに戻る。 これに対し、乙曲の「いつの日にか遠いところで 思い出すだろう」の部分では「ソソラーラソファー」、「ソラソソミレド」、「ドレミードラーミーレー」というメロディーになっており、四つのゆるやかな山が、細かい八分音符の動きで形成され、主音の「ド」から数えて二度の「レ」を交えた女性的な流れとなっている。四つの山を徐々に下ることにより、母親にあやされているような感じで聴き手は追想に誘い込まれる。 両曲の右の部分は、乙曲の「レ」の経過音を除いて比較した場合、似た部分があるが、右のとおりメロディーの流れの感じ及びメロディーが担っている意味が違う。 (4) 乙曲の後半部分 乙曲はこのあと後半部分に入り、「それはたぶん」でなだらかな丘のメロディー(ドレミーレードドー)を奏でたのち、「つらいとき なきたいとき」の「ドドファファファファララソ『#ファ』ソー」の部分でクライマックスを迎える。ここで高まった感情は、次の「みどりいろのはっぱかぜに ゆれるきねんじゅ」の部分で、追想に誘う先ほどの「ソソラーラソファー」、「ソラソソミレド」の部分を繰り返して静かに下降し、聴き手の高まった感情をおだやかにおさめて終わっていく。 乙曲のこの部分は、歌の二番として独立した部分ではなく、歌のクライマックスとその解決という役割を担った重要部分である、甲曲には乙曲のこの部分に相当する部分は存在しない。 (二) その他の要素の違い (1) 曲の全体的雰囲気 甲曲は明るく前向きの曲であり、聴き手に対し、頑張って前進しようという勇気を与える曲であるのに対し、乙曲は卒業式で学校生活を回想して歌うことを念頭において作られた感傷的な曲であり、先生や友達との別れに際し、過去を追想しながら感情が込み上げてくるのを実感するという曲である。 (2) 拍子 甲曲は二分の二拍子であるのに対し、乙曲は四分の四拍子であり、両曲は全く別の拍子である。両曲の拍子の違いは、アクセントの違いを通じて、曲想に決定的な違いをもたらす。 (3) リズム 甲曲は「シャッフル」と呼ばれる軽く飛んだリズムであるのに対し、乙曲は「バラード」の静かなリズムであり、両曲は本質的に異なる。 (4) テンポ 前進的な曲想の甲曲は一分間に二部音符一一六位の速さであるのに対し、情感の深まりを期する乙曲は一分間に四部音符九八位の歩くような速さであり、この点においても両曲は本質的に異なる。 (5) 形式 甲曲は一部形式であるのに対し、乙曲は甲曲の倍のボリュームを持つ曲である。右(一)(4)のとおり、乙曲には、甲曲にはない盛り上がり部分があり、これによって聴き手にもたらされるイメージが全く異なる。 (6) 和声 甲曲はシンプルなスリーコード(基本三和音)の曲であるのに対し、乙曲はデリケートな感情を表現するため十数種類の多彩な和音がきめ細かく付けられており、和声付けも全く異なる。 また、甲曲の本質的部分である冒頭八音で「導音」が使われたことにより、甲曲では「主和音」→「属七和音」(ソレファ)→「主和音」という和音付けとなっているのに対し、乙曲では、「主和音」の後、「下属和音」(ファラド)でベース音を属和音の基音(ソ)とする微妙な和音(ハ長調でいうと「FベースG」)が使われ、主和音に戻っている。この「FベースG」という和音が「ドレミーミレードドー」という丘のなだらかさを更に印象づけている。 (三) 以上のとおり、甲曲と乙曲には同一性はない。 2 乙曲は甲曲に依拠して作成されたものかどうか (原告らの主張) (一) 甲曲は公表されてから三〇年以上の歳月が経過しているが、もともとテレビコマーシャルの音楽として繰り返し大量に放送されてきた。コマーシャルソングは広く一般の消費者を対象に、企業が製品のイメージを焼き付けることを目的として印象深い旋律を繰り返し大量に放送するものであり、好むと好まざるとにかかわらず、消費者の耳に飛び込んでくるものである。 また、甲曲については、アレンジが多数発表されているほか、教科書に掲載され、レコード・CD・出版物も数多く発売されており、同時代を生きた日本人なら甲曲を知らない者がいないほど、認知されるに至っている。 さらに、被告は、甲曲を歌ったレコードを発売しているダークダックスとともに仕事をしたり、ブリジストンタイヤ株式会社の社歌を作曲したりしている。 したがって、被告が、甲曲を知らないということは有り得ない。 (二) 右1(原告らの主張)のとおり、乙曲と甲曲は同一性があり、乙曲に独自性のある部分は存在しない。 (三) よって、両曲の同一性が偶然の一致であるということはあり得ず、乙曲は甲曲に依拠して作成されたものである。 (被告の主張) (一) 依拠性の判断に当たっては、甲曲を知らなければ、乙曲が作成できないものか否かが検討されなくてはならない。 甲曲の「どこまでもゆこう」と「はしってゆこう」に相当する部分の旋律は、一九二〇年代から歌われているアメリカの楽曲である「ケアレスラブ」の一節と一音を除いて同一である。また、この部分は、浜口庫之助作曲の「涙くんさよなら」(一九六五年)の一節とほとんど同一である。 次に、甲曲の「みちはきびしくとも」に相当する部分の旋律は「モーツァルトの子守歌」の音列とほとんど同一である。 さらに、「くちぶえをふきながら」に相当する部分の旋律は、ロシア民謡の「ステンカラージン」、カンツォーネの「アンジェリータ」等に共通する旋律である。 また、「ソミド」又は「ソミレド」の下降例は、フォークソングの中でも有名な「風に吹かれて」、「明日に架ける橋」、「時計」、「今日の日はさよなら」などで頻繁に使われている音型である。 以上のとおり、甲曲の各部分は、慣用句的音型の連続でできあがっているのであるから、甲曲を知らなくてもこれに類似するフレーズが偶然作られる可能性は高い。 (二) 乙曲の制作過程においては、曲よりも先に歌詞ができており、被告は既にできている歌詞を何度も繰り返し読む中で曲想をまとめ、歌詞のイントネーションを大切にしつつ作曲したのであって、乙曲のメロディーの発想の端緒は歌詞にある。 (三) そもそも、被告は経験と実績を十分に有する作曲家であって、子どもたちが卒業式で歌うシンプルな一六小節の曲を書くのに雑作はなく、曲想の全く違う甲曲を参考にしたり、これに依拠したりする必要性はない。 3 甲曲は、慣用句的音型の連続でできあがっているから、複製権又は著作者人格権の侵害が生じる余地がないかどうか (被告の主張) 右2(被告の主張)(一)のとおり、甲曲の各部分は、慣用句的音型の連続でできあがっているところ、慣用句的音型については、複製権又は著作者人格権の侵害が生じる余地はない。 (原告らの主張) 慣用句的音型であるからといって、複製権又は著作者人格権の侵害が生じないということはない。 4 原告小林の損害 (原告小林の主張) 甲曲は原告小林の代表的作品であり、原告小林の音楽家としての半生において極めて重要な位置を占めている。 被告は、原告小林の作品である甲曲の複製に過ぎない乙曲を、自己の創作物として発表した上、全国ネットのテレビ番組の挿入歌として長期にわたり使用し続けた。 その上、訴訟前の回答においては、同一性をあくまで否定するばかりか、原告小林の甲曲を認識していなかったなどという主張を行い、何ら誠意ある対応は見られなかった。 以上のように、原告小林は、被告によって著作者人格権(氏名表示権及び同一性保持権)を侵害されたことにより、重大な精神的損害を被ったものであり、これを慰謝するために必要な金額は金一億円を下らない。 (被告の主張) 原告小林の主張を争う。 5 原告金井音楽出版の損害 (原告金井音楽出版の主張) 被告の複製権侵害行為による原告金井音楽出版の逸失利益は、次のとおり、三二一万円である。 (一) レコード・CD販売にかかる著作権使用料 レコード・CDの製作に楽曲を使用する場合の著作権使用料は、レコード・CD一枚ごとに六〇円であり、二曲入りであれば一曲につき三〇円、作詞分と作曲分に分ければ、各一五円となる。 乙曲は平成五年から現在に至るまでに合計一万枚以上の売上げがあったから、損害額は(一五円×一万枚=)一五万円である。 (二) テレビ放送にかかる放送使用料 放送使用料は一回の使用につき一万二〇〇〇円であり、五年間の乙曲の放送回数は約二五五回であるから、損害額は(一万二〇〇〇円×二五五回=)三〇六万円である。 (被告の主張) 原告金井音楽出版の主張を争う。 被告は、平成四年一二月一日、乙曲の著作権を株式会社フジパシフィック音楽出版に譲渡しており、その後、乙曲が、CDに録音されて販売されたり、テレビ番組の主題歌として放送された経緯には、一切関与していない。 第三 争点に対する判断 一 両曲の特徴・性質と両曲の同一性を判断するに当たって考慮すべき要素 前記第二の一(争いのない事実等)1、2に弁論の全趣旨を総合すると、甲曲はいわゆるコマーシャルソングであり、乙曲は唱歌的なポピュラーソングであって、両曲とも、比較的短くかつ分かり易いメロディーによって構成されているものと認められるから、両曲の対比において、第一に考慮すべきものは、メロディーであると認められる。 しかしながら、証拠(乙五、六、一六)と弁論の全趣旨によると、音楽は、メロディーのみで構成されているものではなく、和声、拍子、リズム、テンポといった他の要素によっても構成されているものと認められ、前記第二の一(争いのない事実等)1、2に弁論の全趣旨を総合すると、両曲とも、これらの他の要素を備えているものと認められる。 そうすると、両曲の同一性を判断するに当たっては、メロディーの同一性を第一に考慮すべきであるが、他の要素についても、必要に応じて考慮すべきであるということができる。 二 甲曲・乙曲の各要素の対比 別紙楽譜一及び同二に基づいて、両曲の各要素を対比する。 1 メロディーについて (一) メロディーの同一性の判断方法 本件のように、ある楽曲全体が別の楽曲全体の複製であるかどうかを判断するに当たって、メロディーの同一性は、一定のまとまりを持った音列(フレーズ)を単位として対比した上で、それらの対比を総合して判断すべきである。 (二) 両曲を構成するフレーズ 右(一)のような音列(フレーズ)を甲曲についてみると、甲曲のメロディーは、@アウフタクト部の二音を含む八音(歌詞の「どこまでもゆこう」に相当する部分。以下「フレーズA」という。)、A@に続く九音(歌詞の「みちはきびしくとも」に相当する部分。以下「フレーズB」という。)、BAに続く一〇音(歌詞の「くちぶえをふきながら」に相当する部分。以下「フレーズC」という。)及びCBに続く八音(歌詞の「あるいてゆこう」に相当する部分。以下「フレーズD」という。)の四つの部分によって構成されていると考えられる。 他方、乙曲は、@アウフタクト部の二音を含む八音(歌詞の「こうていのすみに」に相当する部分。以下「フレーズa」という。)、A@に続く一一音(歌詞の「みんなでうえたきねんじゅ」に相当する部分。以下「フレーズb」という。)、BAに続く一三音(歌詞の「いつのひにかとおいところで」に相当する部分。以下「フレーズc」という。)、CBに続く七音(歌詞の「おもいだすだろ」に相当する部分。以下「フレーズd」という。)、DCに続く六音(歌詞の「それはたぶん」に相当する部分。以下「フレーズe」という。)、EDに続く一一音(歌詞の「つらいときなきたいとき」に相当する部分。以下「フレーズf」という。)、FEに続く一二音(歌詞の「みどりいろのはっぱかぜに」に相当する部分。以下「フレーズg」という。)及びGFに続く七音(歌詞の「ゆれるきねんじゅ」に相当する部分。以下「フレーズh」という。)の八つの部分によって構成されていると考えられる。 (三) 両曲の各フレーズの対比 一文字分を八分音符の長さとし、「─」の部分は、四分音符、二分音符及び付点音符によって、直前の音符が同一音階で伸ばされていることを示す。また、各「 」の後の( )内には対応する歌詞を示した。 (1) フレーズAとフレーズa ・フレーズA「ドレミ──ドシ─ドレド───」 (どこま──でも─ゆこう───) ・フレーズa「ドレミ──ミレ─レドド───」 (こうて──いの─すみに───) 右のように、フレーズAとフレーズaは、フレーズに使用される各音符の長さ並びに冒頭の「ドレミ──」及び末尾の「ド───」において相対的な音階が共通するが、右各フレーズを全体として比較すると、異なる音階の変化によって構成されているというほかなく、これらが同一性のあるフレーズであるとは認められない。 (2) フレーズBとフレーズb ・フレーズB「ドドフ──フフフソラソ───」 (みちは──きびしくとも───) ・フレーズb「ドドフフフフララソフソ───」 (みんなでうえたきねんじゅ──) 右のように、フレーズBとフレーズbは、冒頭の「ドドフ」とそれに続く八分音符三個分、その後の八分音符二個分を経た後の八分音符「ソ」及び末尾の「ソ───」において相対的な音階が共通するが、フレーズ同士を全体として比較すると、前半部分の音階の変化を共通にするに過ぎず、前半部分においても、音符の数及び長さは異なっている上、後半部分は、音階も明らかに異なるから、これらのフレーズに同一性があるということはできない。 (3) フレーズCとフレーズc ・フレーズC「ソソラ──ソフ─ソラソ──ミド」 (くちぶ──えを─ふきな──がら) ・フレーズc「ソソラ─ラソフ─ソラソソミレド」 (いつの─ひにか─とおいところで) 右のように、フレーズCとフレーズcは、末尾の二音「ミド」(フレーズC)と三音「ミレド」(フレーズc)を除いて、その音階の変化が同じであり、この点で相当程度類似しているということができるが、同一の音階の中にあっても、音符の数及び長さは異なっている上、右のとおり末尾の音階も異なっているから、これらのフレーズに同一性があるとまでいうことはできない。 (4) フレーズDとフレーズd ・フレーズD「ドレミ──ドシ─ドレド───」 (あるい──てゆ─こ─う───) ・フレーズd「ドレミ──ドラ─ミ─レ───」 (おもい──だす─だ─ろ───) フレーズDとフレーズdは、前半部分において音階(ドレミ──ド)を共通にするのみであり、後半部分は全く異なるから、両フレーズに同一性があるということはできない。 (5) フレーズeないしh フレーズeないしhは、フレーズaないしdと類似性があるということができるが、単純な繰り返しでないことは明らかであり、フレーズaないしdを繰り返し記号を用いて反復したり旋律を転記したからといって直ちにフレーズeないしhになることはない。その意味では、乙曲のフレーズeないしhについては、これに対応する甲曲のフレーズが存在しないというほかない。 もっとも、右の類似性に鑑み、以下では、フレーズAないしDとフレーズeないしhについて対比する。 (6) フレーズAとフレーズe ・フレーズA「ドレミ──ドシ─ドレド───」 (どこま──でも─ゆこう───) ・フレーズe「ドレミ───レ──ドド───」 (それは───た──ぶん───) 右のように、フレーズAとフレーズeは、冒頭の「ドレミ──」及び末尾の「ド───」において相対的な音階が共通するが、右各フレーズを全体として比較すると、異なる音階の変化によって構成されているというほかなく、フレーズに使用される各音符の長さも同じではないから、これらが同一性のあるフレーズであるとは認められない。 (7) フレーズBとフレーズf ・フレーズB「ドドフ──フフフソラソ───」 (みちは──きびしくとも───) ・フレーズf「ドドフフフフララソフソ───」 (つらいときなきたいとき───) 右のように、フレーズBとフレーズfは、冒頭の「ドドフ」とそれに続く八分音符三個分、その後の八分音符二個分を経た後の八分音符「ソ」及び末尾の「ソ───」において相対的な音階が共通するが、フレーズ同士を全体として比較すると、前半部分の音階の変化を共通にするに過ぎず、前半部分においても、音符の数及び長さは異なっている上、後半部分は、音階も明らかに異なるから、これらのフレーズに同一性があるということはできない。 (8) フレーズCとフレーズg ・フレーズC「ソソラ──ソフ─ソラソ──ミド」 (くちぶ──えを─ふきな──がら) ・フレーズg「ソソラ─ラソフ─ソラソ─ミレド」 (みどり─いろの─はっぱ─かぜに) 右のように、フレーズCとフレーズgは、末尾の二音「ミド」(フレーズC)と三音「ミレド」(フレーズg)を除いて、その音階の変化は同じであり、この点で相当程度類似しているということができるが、同一の音階の中にあっても、音符の数及び長さは異なっている上、右のとおり末尾の音階も異なっているから、これらのフレーズに同一性があるとまでいうことはできない。 (9) フレーズDとフレーズh ・フレーズD「ドレミ──ドシ─ドレド───」 (あるい──てゆ─こ─う───) ・フレーズh「ドレミ──ドレ──ドド─────」 (ゆれる──きね──んじゅ────) フレーズDとフレーズhは、前半部分において音階(ドレミ──ド)を共通にするのみであり、後半部分は全く異なるから、両フレーズに同一性があるということはできない。 (四) 両曲のメロディーの同一性 以上のとおり、甲曲と乙曲をフレーズごとに対比してみると、一部に相当程度類似するフレーズが存在することは認められるが、右のフレーズを含めて各フレーズごとの同一性が認められるとはいえないから、それらのフレーズによって構成されている乙曲のメロディーと甲曲のメロディーの間に全体としての同一性を認めることはできない。 2 和声について 甲曲は、三種類の和声によって構成される楽曲である。 証拠(甲二〇、三〇)と弁論の全趣旨によると、乙曲の和声も、基本的には甲曲と同様の三種類の和声によって基礎づけられるものであり、両曲は、和声において、基本的な枠組みを同じくする楽曲であると認められる。 もっとも、具体的には、甲曲の和声が三種類のみからなっており、和声自体の変化を抑えた比較的単純な構成となっている(別紙楽譜一参照)のに対して、乙曲の和声は、多様な短和音を多数配している点に特徴があり、同一和声に調和するメロディーの中でも敢えて細かく和声を変化させて流れを作り出している(別紙楽譜二参照)ということができる。 3 拍子について 甲曲は二分の二拍子であるのに対して、乙曲は四分の四拍子である。 証拠(乙五)によると、二拍子と四拍子では、アクセントが異なるので、聴き手が曲から受ける感じが異なるものと認められる。 三 両曲の同一性 右二のとおり、両曲は、対比する上で最も重要な要素であるメロディーにおいて、同一性が認められるものではなく、和声については、基本的な枠組みを同じくするとはいえるものの、具体的な個々の和声は異なっており、拍子についても異なっている。 そうすると、その余の点について判断するまでもなく、乙曲が甲曲と同一性があるとは認められないから、乙曲が甲曲を複製したものということはできない。 証拠(乙六ないし八)によると、被告は、乙曲を作曲したものと認められる。 四 以上の次第であるから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がない。 他方、被告の請求は理由がある。 よって、主文のとおり判決する。 東京地方裁判所民事第四七部 裁判長裁判官 森義之 裁判官 榎戸道也 裁判官 杜下弘記 |
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